変えられた人

イエス様の愛の中で

現在、シドニー大学で日本語教授をしている、コリン・ノーブルさんは、当時採用した本店勤務のバイリンガル行員第一号のスタッフでした。彼は、「俺が君のボスだ」と言って憚らない私に対し、「天皇は現人神ですか」といった質問をして来ました。

当時の私は、「俺が君の神さまだよ」とうそぶいていました。それでも彼は、『キリストの水先案内人』として私に日本語の聖書をプレゼントしてきました。日本語の聖書を読みこなし、時に聖書的発言を繰り返す彼に対し、私は持ち前の対抗意識を燃やして聖書を読み始めましたが、ほとんど理解できませんでした。

バブル経済が崩壊し大きな事故が銀行内で発生しました。私は、その原因を調査して二度と同種の事故が発生しない対策を講じる仕事に就きました。日銀や監督官庁の大蔵省からお叱りを受けないようにと、頭を振り絞って徹底的な対策を講じ、システムチェックするための開発投資にもお金に糸目をつけずに行いました。しかしながら、バブルで緩んだ人間の行状を簡単には変えることはできず、相変わらず事故が発生する状況でした。私は自力解決できないことで悩み、考え込むようになりました。その時、「人間の考えた仕組みや制度・システムにはどうしても限界がある。倫理とか宗教的な何かが企業の中に必要なのではないか。」と思わされ、先にもらっていた聖書に自然と手が延び、改めて読み始めました。

そしてその「何か」を探して教会に通い始めました。教会に行き始め、入門クラスでの学びを始めたある日曜日、私は礼拝中に高熱を発して倒れました。礼拝が終わるまで、教会の日本間で一人横になって眠り込んでいました。礼拝後、妻の運転する車で家まで辿り着き、そのまま三日三晩ベッドの中。疲れの絶頂期にあったようで、身体全身に湿疹ができ命を失いかねない恐ろしいヘルペスと診断されました。後にも先にも、元気印の私がこんな風に寝込んだのはこの時だけなのです。

ベッドのなかで、聖書を読んでいたときのことです。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2・17)の聖書箇所に、釘付けになりました。そして、「自分はこうして寝込んでいるけれど、実は身体の病人ではなく心の病人なのだ。」と、気が付きました。

私は、45才でイエスさまの虜になった遅咲きの桜。それまで、若くして覚えた自己接待に励み、家庭に帰るのは疲れ果てて眠りに着くときだけ。仕事人間と妻に揶揄されていた情けないバンカー(馬鹿)でした。それでも、妻の涼子が私を粗末には扱わなかったことと,母の胎の中にいるときからずっと、神さまが私を愛し続けていてくださったことが救いなのです。

マルコによる福音書11章23節には、次のように書かれています。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

皆さんは、こんな風に、山を海に入れたことがありますか。私は、これまでの銀行員生活の中で、とても自分には出来ないと、ギブアップしそうな大きな問題に何度も出くわしました。こうした時には、イエスさまに解決を求めて祈り続けます。祈り続けていく中で、解決策が示され、大きな山をいくつもいくつも動かしてきました。これが私への聖霊の働きで、大変感謝しています。

私は、幸せになりたい、成功したいと思っていました。そしてずっとそのような道を歩んでいたのです。自分が求めているものは、努力して追い求めるようなものではないことが私にはわかりました。成功や幸福というものは、神様に委ねた人生の副産物だったのです。私はこの教訓を一度ならず何度も学ばねばならなかったような気がします。いえ、いろいろな意味では、今なお学んでいるのです

                                         

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